「案ずるな。少なくともそれは、天が何とかしてくれよう」
鉛を張ったような、暗く重々しい空を仰ぎ見ながら、揚々と呟いた。
何かを期待するような笑顔を浮かべる主君を見て、重臣たちは思わず首を横に捻(ひね)る。
「…天…にございますか?」
「ああ。じゃと言うても、あくまで運が良ければの話じゃがな」
そう言って、また一つ笑みを漏らすと
「───皆々!よう聞くのじゃ!!」
やおら信長は生真面目な表情になり、将兵たちの前に出(い)でて大声を張った。
「少数の兵じゃからというて大軍の敵を恐れるな!勝敗の運は天にある! 敵がかかって来たら引け、敵が退いたら攻めかかれ!
敵を捻り倒し、追い崩すことなど容易いことじゃ!良いか、敵の武器をぶん取るでないぞ、捨てておくのじゃ!
この合戦に勝てば、戦に参加した者の家は名誉。末代まで高名である。 皆々、ひたすら励むのじゃ!!」
信長の激が飛ぶと、居並ぶ兵たちの間から「「おおぉー!!」」と歓声の如き叫声がわき上がり、
今川の大軍を前に内心不安を抱えていた兵たちの、やる気と団結の思いとを一気に高めた。
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「畏れながら申し上げます! 前田利家殿、毛利長秀殿、木下嘉俊殿、森小介殿、安食弥太郎殿ら、敵勢の御首を手に、只今お戻りにございます!」
討死となった佐々政次、千秋季忠の軍に加わって無事だった者たちが、各々討ち取った敵の首を手に戻って来たのである。
信長は合流した彼らに対しても
「良いか、少数の兵じゃからというて大軍の敵を恐れてはならぬ。勝敗の運は天にあるのじゃ───」
と、先程兵たちに向かって言ったことを、同じく言い聞かせたという。
それから程なく、信長は合流した者たちを含む数多の兵たちを引き連れて、中嶋砦を出発。
今川本隊が陣を張っているとされる、桶狭間の山際まで軍を進めた。
まさにその時である。
天空を厚く覆(おお)う、鉛色の雲の間から、ぽつり…、ぽつり…と雨が降って来た。
これに、思わず空を見上げ、カッと双眼を見開いた信長は
『 やはり───天はこの儂の味方であったか! 』
と、心の中で声を大にして叫ぶと、やおらその面差しに感動に満た微笑を広げた。
「恒興よ!」
「はい、殿」
「これでそちの首を斬り落とさずに済みそうじゃ!」
「それを聞き、大いに安堵致しました。殿の首も、大御ち殿に斬られずに済みそうでございますな」
「はははっ、まったくよ」
信長が軽快な笑い声を響かせている最中にも、雨はどんどん激しさを増してゆき、
まるで目の前を白い薄衣で覆ったかのような、前方が殆んど見えぬ程の豪雨となった。
あまりの激しさに、沓掛峠にあった二抱えか三抱えもある大きな楠(くすのき)が倒れたと言い、
これを幸運に思った織田軍は「この合戦は、熱田大明神の神慮による戦いではなかろうか!」と言って、歓喜したという。
信長は馬の手綱を操り、背後の将兵たちの方へ振り返ると
「さあ!皆々参ろうぞッ! 守りの厚き義元の陣に近付けるのは今しかない!
そなたらの懸念であった進軍の足音も、馬の嘶きも、そして我らの姿や気配も、この恵みの雨が全て消し去ってくれよう!