すると報春院は濃姫を一度睥睨するように見つめてから、ふっと、吐息を漏らすような淡い微笑をその口元に浮かべた。
「何故か?そのような事は訊くまでもありますまい。信長殿は我が意に沿わぬ御子だからです」
濃姫は瞬時に目を瞬かせた。
「そのような事……本気で仰っているのですか?」
「気性も荒く、行儀も態度も悪い、その上尾張一の荒くれ者じゃ。私の言うことなど何一つ聞かぬような子を、どうして好きになれようか!?」
「されど、実の母と子をならば分かり合えるものがきっとあるはず!」
「今更あの子と何を分かり合えと申すのです。信長殿は、私という水から生まれ出た油じゃ。一生溶け合う事も混ざり合う事もないのです!」
「ならば義母上様が同じ油になって差し上げれば良いではありませぬか!」
濃姫は一喝するように叫んだ。
「殿は織田家の大将として、常に矢面に立たち続け、東西の猛将方ともこれまでにも増して刀を交える事になりまする。
もし…万が一にも、殿が戦場(いくさば)で命を落とすような事になれば、和解はおろか、先程のように不服をぶつけ合う事すらも叶わなくなるのですよ!?」
「黙りゃ!」https://plaza.rakuten.co.jp/aisha1579/diary/202407230001/ https://blog.goo.ne.jp/debsy/e/0907fe15bc2266b8701808cd20b8e663 https://freelance1.hatenablog.com/entry/2024/07/25/004109?_gl=1*11by1hr*_gcl_au*MTY2OTkwNTc4OC4xNzE4OTcyMTIz
「いいえ黙りませぬ!殿は己の天下の為、またこの織田家の繁栄の為に懸命に戦い続けているのでございます!当主として、死しても良い覚悟で…」
「死んでほしくないから言っているのではないか!!」
まるで怒声を吐くかの如く告げられた報春院の言葉に、濃姫ははっと息を詰めた。
「信長殿に死んでほしくない故…!当主の座から退いてほしいのじゃ!!」
その思いがけぬ発言に、濃姫は完全に言葉のつぎ穂を失っていた。
高まり始めていた自分の中の熱が、冷水を浴びたようにみるみる引いてゆくのを感じる。
報春院は興奮の最中(さなか)にあるのか、浅い呼吸を何度も何度も繰り返すと、
急に胸の奥に詰まりを感じたように、顔の中心に収まるその黒い二つの瞳の中に、潤んだ光を湛えた。
「……信勝殿は親族にも家臣に対しても情の厚き子故、謀に巻き込まれる事はあっても、誰かの怨みを買って斬られるという事はなかろう。
窮地に追い込まれれば逃げ道を探し、例え一人になろうとも、我が身を守る術を冷静に考えられる子じゃ」
「──」
「じゃが信長殿は違う。あの気性故、人々から誤解を招く事も多く、周囲に敵を作り易い子じゃ。
危険を危険とは見なさぬ故、先陣に立って刀を振う事も、家臣らに混じって鉄砲を構える事も惜しまぬ。
あの子はいつ死してもおかしくない状況におる。それが織田家の大将ならば尚更じゃ」
「義母上様…」
「英邁な信勝殿ならばきっと良き主君になりまする。じゃから信長殿には、これ以上命を削るような真似はせぬよう、安穏と暮ら──」
そこまで言って、報春院は話を断ち切った。
その虚ろな目が、姫の姿を静かに認める。
「……ぁ…」
まるで自分が何者かを思い出した記憶の喪失者のように、報春院は両眼をわっと広げると、濃姫の前で激しく狼狽した。
完全に我に返ったのである。
何やら怯えた様子で、暫く無造作にその目を左右に泳がせると
「私とした事が…いったい何を言っているのでしょう……。どうぞ、お聞き捨て下され…」
「義母上様、今のお言葉─」
「千代山!!」
話かけようとする姫から顔を背け、報春院は側で立ち尽くしていた千代山を瞬時に見咎めた。