「茶室へ向かう途中だったのであろう!? 何を突っ立ておる、早よう案内致せ!早よう!」 報春院はやや赤らんだ顔を俯けると、着物の裾を翻し、千代山と共にそそくさとその場を離れていった。 濃姫は渡り廊下の中央に立ち尽くし、長らくそれを見送っていたが、ふいに胸の中に溢れるものがあり、その清廉な面差しに穏やかな笑みを浮かべた。 これはあくまで姫の推測に過ぎないが、きっと報春院は、初めは本当に信長を嫌っていたのだろうと思った。 誇り高く教養もある彼女は、激しい気性で何事にも奇抜な振る舞いの絶えぬ息子を、どうしても受け入れる事が出来なかったのであろう。 しかしいつしか、頑なだった報春院の心にも僅かながらの緩みが生じた。 https://plaza.rakuten.co.jp/aisha1579/diary/202407280001/ https://blog.goo.ne.jp/debsy/e/22e663fce3eccb1a915a0752cdf40192 https://freelance1.hatenablog.com/entry/2024/07/25/004342?_gl=1*jodvuy*_gcl_au*MTY2OTkwNTc4OC4xNzE4OTcyMTIz 優秀な信勝を溺愛すればするほど、その反動のように、問題児であった信長の事が気になって気になって仕方がなくなってしまったのだ。 ついに鬼はなり切れなかった彼女は、自身でも気付かぬ内に、疎遠の息子を案じる一人の母となっていたのだろう──。 と、濃姫は己の理想を描くようにそう思った。 今の信長と報春院の関係を垣間見るに、両者が完全に分かち合うには、まだまだ時を費やす必要があるだろう。 しかし、姑のふとした気の緩みの中から、手探りでは掴み切れなかった和解への可能性を、ようやく一つ掴み取る事が出来たのである。 濃姫は織田家の奥を守る女主人として、少しずつ、だが着実に夫と姑の距離を縮める手助けをしようと強く心に決めるのであった。 尾張が母と息子の不和で揺れている時 「──義龍よ、今何と申した?…尾張の信長殿を攻めよと、そう申すのか!?」 「──左様にございます。今の美濃の状勢、また行く末を考えるに、もはや尾張との戦は避けられるものではございませぬ!」 濃姫の故郷・美濃では道三と義龍、父と息子の確執ともいうべき不和が続いていた。 稲葉山城の曠然とした座敷の中で、大きく距離を取って対座する両者の間に、互いを威嚇し合うような凄絶な空気が流れている。 道三の傍らで、晩酌の酒肴を整えていた小見の方も、親子の口論合戦を予期したのか、 夫の側から一歩引き、「そなたたちは暫し下がっていよ」と、控えの侍女たちを早急に退出させた。 義龍の訴えに、道三は肩で大きく息をすると 「まずは伺うと致そう。義龍。美濃の状勢、行く末とは何の事じゃ」 順を追って話を聞こうと、至極冷静な態度で訊ねた。 「今更申すまでもありますまい。我が美濃は森林、山々に囲まれた鬱然とした土地なれど、商業盛んにして、何より都へと繋がる通り道にございます。 それ故に、北からは長尾景虎(上杉謙信)、東からは武田氏、そして南の今川義元など、上洛を願う武将らが、隙あらば美濃を我が物にせんと、虎視眈々と狙うているのです」 「よう分かっておる。じゃからこそ、儂も美濃を奪われまいと長の月日守り続け…」 「いいえ、もはや守り続けるだけではなりますまい。今川を見習うて…と言うては言葉が過ぎるやも知れませぬが、 近隣諸国を攻め滅ぼし、徐々にでも領土を広げていかねば、いずれ訪れよう斎藤家滅亡の憂き目は決して免れる事は出来ませぬ!」 「その為に、まず尾張を攻めると申すのか?」 義龍は深く頷いた。