「案ずるな。親父殿は我が岳父にして、大事なる後ろ楯じゃ。親父殿に危機が迫りし時は、必ず儂が助けに参る」 力強い夫の言葉に、濃姫の目が俄に輝いた。 「それは、まことにございますか!?」 「ああ。儂は正徳寺にて親父殿と約束致した。親父殿が危機的状況に陥った時は必ず援軍を寄越すとな。 村木砦での戦の折に、親父殿は我が願いを聞き入れ美濃勢を尾張へ寄越してくれた。今度は儂が、親父殿の期待に応える番じゃ」 「殿──」 濃姫は何とも頼もしそうな目で、https://carinacyril786.e-monsite.com/blog/--14.html https://www.evernote.com/shard/s729/sh/93e541cc-333f-535a-b8b2-edf6d82844e6/mAaqarglQFdppMe3QmFRAnAqz04pGzn17qQADk6ewhSOWUohu0N6d-0lnQ https://blog.udn.com/29339bfd/180844405 勝ち気に微笑(わら)う信長を見つめた。 「故に、そなたは狼狽えることなく、来るべき時の為に随時備えをしておくよう。 …分かったな?」 姫は首肯するように目を軽く伏せると、夜具の上に双の手をつき、安堵と決意の表情で低く頭を垂れた。 やがて濃姫が、下げた頭を静かにもたげると 「─!」 急に信長の両手がにゅっと姫の前に伸び、彼女の左右の頬を勢い良く摘まんだ。 突然のことに濃姫は目を白黒させる。 「と、殿!何をなされまする…!?」 思わず姫が声を上げると、信長はそのまま妻の頬を真横に伸ばした。 狼狽えたように泳ぐ濃姫の両眼が、悪戯っぽく笑う夫の細面を不規則に捕らえていると 「そなたの方が“儂よりも”ずっと滑稽な顔をしておるわ」 信長は爽快さの感じられる声で言った。 その刹那、つい数分前の出来事が頭の中を激しく駆け巡り、濃姫は思わず「あっ」と眼孔を広げる。 「儂の顔を玩(もてあそ)びおったお返しじゃ」 「……っっ」 信長の口元が薄く開き、白い八重歯が覗いていた。 それからひと月、またひと月と、月日は静かながらも着実に過ぎていったが、あれ以降美濃からは、これといった大きな報は届かなかった。 お互いがお互いの出方を窺い合っているのか、または晦日から翌年上旬にかけて美濃では大雪が続いた為か、 道三と義龍が戦場にて相まみえる気配は一向に訪れることなく、情勢は平行線の一途を辿っていたのである。 この間濃姫は、稲葉山城の義龍に宛てて何度となく戦になる事だけは避けて欲しいと嘆願の書状を送ったが、 義龍の意志が固いのか、或いは途中で差し止められて義龍の手に渡っていないのかで、嘆願に対する返事は一通として届かなかった。 濃姫は不安と哀しみで押し潰されそうであったが、一方ではそんな状況に甘んじている自分がいた事も確かだった。 《 今は何事もなく時が過ぎているが、いつ兄上が此度の決着をつけようと動き出されるか分からぬ。最悪の事態も考えて、至極冷静に行動しなければ 》 《 なれど、このまま冷戦状態が続けばお二方の直接的な争いだけは避けられる。…嗚呼、出来る事ならば雪解けと共にお二方の蟠(わだかま)りも解けて下されば良いのに 》 濃姫は矛盾する二つの思いを、その小さな胸の中にひっそりと同居させていたのであった。 しかし翌年の弘治二年(1556)四月十八日。 濃姫二十二歳の、この麗らかな春の日に、彼女の“一方の”思いは完全に打ち砕かれた。