が、三好義継、松永久通、 そして「三好三人衆」と呼ばれる三好氏の家臣・、岩成友通らの軍勢によって、 京都の二条御所にて殺害されるという、世に「永禄の変」「永禄の政変」などと称される暗殺事件が起きていた。 この時、義輝の生母である慶寿院、鹿苑院の院主であった弟の足利周高も共に暗殺されていたが、 義輝と同母兄弟であった一条院の門跡・は、久通たちによって奈良の興福寺に一時幽閉されるも、 幕臣の細川藤孝、三淵藤英らの助けによって奈良を脱出し、長じて近江へと逃れた。 この覚慶こそがの足利義秋であり、彼は一連の事態を受けて https://zenwriting.net/vpfk6ln72m http://eugenia22.eklablog.net/-a216086497 https://blogfreely.net/carinadarling/nimoguan-warazu-ba-mian-mosuo-ling-nozhao-shishang-gemonaku-tadaoxu-shininararerutoha 『 亡き義輝公の実弟である我こそが、足利将軍家を継承するに相応しい人物である 』 と思い及び、足利家の当主となる旨を宣言。 翌年には矢島御所にてし、今の『義秋』を名乗り、将軍家再興に向けて動き始めたのである。 その為にはまず京へ上る必要があったが、京の街には兄・義輝を暗殺した三好勢や松永勢らが入り乱れており、 何の兵力も持たない義秋が、易々とを果たせるような状況ではなかった。 そこで彼は、自らを奉じて上洛してくれるよう、各地の有力大名に力添えを呼びかけたのである。 「…しかし驚き入りましたな。今のような時分になって、再び織田家へ力添えを頼まれるとは」 信盛が意外そうな顔をして言うと 「まことに。例の一件以来、義秋様からは何のお沙汰もありませなんだ故、お諦めになられたとばかり思うておりましたのに」 と丹羽長秀も同意がちに頷いた。 実は以前にも、義秋は上洛の手助けを織田家に要請していたのだが、信長はすぐに良い返事は出さなかった。 その頃はまだ美濃を平定しておらず、未だ斎藤家との戦を繰り広げていたで、余力がなかったのである。 そこで義秋は斎藤・織田両家の和睦を提案。 龍興もこれに応じた為、信長は義秋の上洛の為に兵を上げる決意をし、美濃から北伊勢、南近江を経由して京へ上る算段を立てた。 ところが斎藤側がこの和睦を破って襲撃して来たことにより、織田勢は急遽尾張へ撤退。 上洛の話は白紙に戻ってしまったのである。 やがて義秋も、故あって自身の妹婿にあたる若狭国のの元へ移り、長じて越前の朝倉義景の元へ身を寄せた。 義秋は自身の上洛の手助けをするように義景に頼むが、義景は上洛に消極的で、一向に腰を上げる気配を見せなかったのである。 上洛が叶わぬまま、この年(永禄十一年)の二月八日。 てより三好三人衆の支持を得ていた義秋の従兄弟・が、摂津にて将軍宣下を受け、事実上の室町幕府十四代将軍に就任した。